ブログ ミラノ・プリミパッシ

筆者プロフィール

井田京子
大学卒業後、高級家具メーカー勤務時代に、ミラノを拠点とする舞台演出家井田邦明氏と知り合い、1996年に結婚。
結婚後はイタリアに渡り、現在は、ミラノ中心部の閑静な住宅街に、ご主人、お嬢さんと3人暮らし。
お嬢さんのファーストシューズは、もちろんグゼッラ。

ヴォーチェ・ビアンカ・シチリアーナ

      ヴォーチェビアンカシチリアーナ.JPGTV番組に出演中の少年に釘づけになりました。「アダージョ」という難易度の高い曲を、唖然とするほどの歌唱力で歌っていたからです。迫力の声量に、声変わり前のヴォーチェ・ビアンカ(直訳すると「白い声」。ボーイ・ソプラノのこと。)の無垢な響きが加わった、忘れがたい声。横で見ていた夫も娘も、ボソッと一言「ブラボー。」彼の名はクリスチャン・インパラート、シチリア出身の13歳。「イオ・カント」(「私は歌う」)というこの番組「子供のど自慢」には、歌の英才教育を受けた子供が多く出演するそうですが、彼にその経験はなく、ただ好きで歌っていただけ、というから人々は尚更驚いたのでした。その美声は評判を呼び、翌週のこの番組の視聴率は急上昇。またユーチューブの彼の歌唱場面へのアクセスが、一週間で30万件を超えてその後も伸び続け、かのスーザン・ボイルのごとく、イタリアでは今ちょっとしたブームになっています。彼の出身地シチリアでは殊更反響も大きく、ユーチューブには「君が私と同じシチリアーノであることを、誇りに思う」といった書き込みも多くあるとか。彼の歌った「アダージョ」は、私も大好きなラーラ・ファビアンの持ち歌ですが、そういえば彼女も母親がシチリアーナ(シチリア人)。そんなことから、私は何度か旅したシチリアを思い出していました。

シチリア。言わずと知れた「マフィア」の総本山。映画「グラン・ブルー」の舞台としても有名な、世界遺産も数多く擁するイタリアの島。古代ギリシャ、ローマ、アラブ、ノルマン、フランス、スペインなどに征服された歴史を持つことから、イタリア本土とは一線を画す、複雑多様な文化体験ができるところなのです。

首都パレルモの第一印象は、正直なところ、うらぶれて暗いな、というもの。歴史的建築物は、その昔ここで多くの文化がクロスしたことを伝えて、エキゾチックで充分魅力的ですが、ここは本当にイタリアなのか?と。歴史の遺産は、人々のルックスにも及び、混血の進んだこの島では、感嘆するほどの美形もちらほら見かけます。例えば友人のシチリアーノ、ナンドは、髪はアラブ人のように漆黒の縮れ毛なのに、瞳の色は吸い込まれそうなほど真っ青。不思議な美しさです。シチリア料理も、多くの文化の影響を受け、奥深くひときわ個性的。独特なスパイスを用い、濃厚ではっきりした、しかし意外な味付けが特徴でしょうか。海産物の扱いもうまく、海の幸のクスクスには舌鼓を打ったものでした。「カッサータ」というアラブ風のドルチェは驚愕の甘さで、グロテスクなほど鮮やかに着色されています。グラニータ(微粒子のシャーベット)の滑らかな口当たりと、渇きを癒す即効性には感動。ジェラートを、ブリオッシュ(甘いパン菓子)にはさんで食べることも、私には驚きでした。

二度目の訪問で、シチリアの小島ランペドゥーザに滞在した時には、私たちのホテルに警察官の家族も滞在中。なぜかと尋ねると、アフリカからボートで、イタリアに不法入国する人々を取り締まるためだということ。ここからアフリカは、目と鼻の先なのだと実感。そうだった。イタリアといってもシチリアは、シロッコが吹き、椰子の木が茂る場所。多くの文化がクロスした記憶を持つ、特異な島だった。「アダージョ」の歌声の背景が、私の中に蘇りました。

魔女の一撃

   16日、イタリアはエピファーナ、俗にベファーナと呼ばれるキリストが自己魔女の一撃9.JPGを顕示したことを記念する日。」とあります。この日の前夜には、ベファーナと呼ばカトリックの祭日。辞典によれば、「救世主の御公現の祝日。東方の三博士に代表される異邦人に対して、れる魔女がほうきに乗ってやってきて、良い子にはお菓子やプレゼントを、悪い子にはカルボーネ(石炭)を配り歩くと言われ、子供たちは寝る前に、枕元や暖炉の横に靴下を吊るして、「魔女の判決」を待つ日なのです。そして人々は、この日を最後にナターレ気分を一新し、イタリアはまた、日常のサイクルに戻る日でもあります。

昨年末、ベファーナとはちょっと違った「魔女」が、私を訪ねてやってきました。それは「コルポ・ディ・ストレーガ」(魔女の一撃、不意討ち)。「ぎっくり腰」をイタリアではこういうのです。朝起き抜けに、いつものようにベッドから立ち上がろうとした途端、突然腰に激しい痛みが走り、動けなくなってしまいました。とにかく安静が一番、一週間ベッドで過ごして事なきを得ましたが、その急激な痛さは、まさに「魔女の一撃」。再発防止のため、フィズィオテラピア(整体)にも出向きました。評判のイタリア人整体師だったので、少しは期待していたものの、私の知る肌理細やかな日本の整体とは、比較にならないアバウトな施術。ドイツに住んでいた友人が、ドイツの整体も痒いところには手が届かない気がする、と言っていたように、欧州の整体とはおおよそこんな感じなのかもしれません。

いずれにせよ自己管理は必須で、演劇を教える夫に「アレキサンダー・テクニーク」という姿勢術を指南され、まずは日常生活での姿勢や歩き方、動き方を意識するように。その結果、今更ながら、なるほど首や腰、背中の痛みは、間違った姿勢や歩き方に起因する部分も大きいということを実感。でも長年の習慣はなかなか改まり難く、気がつくと元に戻っていることしきりです。

ところで娘が4歳になりたての頃、かかりつけの小児科での定期健診で、脚の形がO脚気味ゆえ、一応オルトペディア(整形外科)に見てもらっては、と言われました。指摘されるまで思いもよらないこと。でも念のために、と出向いた病院の専門医から、日本人のDNAには、O脚の遺伝子が組み込まれているもの、だからそれ程心配することはないけれど、もしも気になるのであれば、と勧められたのがグゼッラの自然矯正靴。娘は既にこのメーカーのファーストシューズを愛用していたので、引き続きお世話になることにしました。

そして、娘が8歳になった時のこと。本人のたっての希望で始めたバレエでは、入学試験のひとつに身体検査がありました。専門医に骨格の歪みや筋肉の付き方、体のバランス、土踏まずや脚の形などを、事細かに調べられるのです。幸いなことに娘は、特にO脚が問題にされることもなく、無事に検査を終えることができ、その後の定期的な身体検査でも、今のところ順調だと確認されて、親としてはほっとしています。思えばグゼッラの子供靴が、あるいは娘の幼少時の脚を自然に矯正してくれていたのかもしれない。子供時代からの姿勢や歩き方の良い習慣は、将来「魔女の一撃」に遭わないための、賢い選択の一つなのかもしれません。

ミラノのナターレ

プレセピオ14.JPG

言うまでもなくナターレ(クリスマス)は、カトリックが国教であるイタリア人にとって、年中で一番大切な行事。この時期になると、主だった教会には「プレセピオ」といって、キリスト降誕の場所を表現した模型が大掛かりに飾られ、それを見がてら多くの参拝客が訪れます。ミラノも、カステロ(城)やガレリア(中心地にあるアーケード)、また街の通りのあちこちに、祝祭的なイルミネーションが輝きだし、ナターレ準備の買い物客で、街はごった返します。この時期、家族はじめ親しい人やお世話になった人にレガーロ(プレゼント)を贈ります。家に飾られたアルベロ・ディ・ナターレ(クリスマスツリー)の下に、包装紙に包まれたままのプレゼントを置いておき、ナターレ当日、皆で騒ぎながら、その沢山の包みを紐解くのも人々の楽しみの一つです。

25日は日本の元日のように、家族そろって盛大に祝います。イタリア各地で、ナターレに食べる料理は違いますが、ミラノではトルテリーニという、中に肉やプロシュート(ハム)の練り物が入った、小さな餃子の様な形のパスタを、ブロード(肉と野菜からとったスープ)にいれていただきます。日本の年越し蕎麦のようなものでしょうか。我が家では、プリモ(1番目の料理)にこのトルテリーニ、セコンド(2番目の料理)にはモデナの特産のザンポーネを。これは豚の足に、豚肉の細切れに香辛料を混ぜたものを詰めた、ソーセージとサラミの中間の様なもので、茹でてからスライスして食します。それに「商売繁盛」を願うレンズ豆を煮たものを添えて。これが、料理好きの夫が毎年準備する、我が家のナターレの定番なのです。

イタリアのクリスマスケーキも、地域によって様々なものがありますが、ミラノではパネットーネといって、パネットーネ菌を入れ発酵させた菓子生地の中に、干ぶどうやオレンジピールを練りこんで焼いた、ドーム型のケーキをいただきます。味はケーキとパンの中間、といった感じでしょうか。初めて味わった時は、今までに体験したことのない、しっとりと薫り高い生地の味わいに感激したものでした。日持ちするので、余ったものを後日少しあぶって味わうのもまた美味。大人はこれにスプマンテ(シャンパン)で乾杯。お気に入りのパスティチェリア(菓子店)に毎年予約して、楽しんでいます。

ミラノではこの日、トンボラ(tombola)という名のゲームをする習慣があります。これはビンゴのようなゲームで、1から90までの数字を、袋に入れるなどして無作為に取り出し、出た番号から、各々の手元にある縦3×横5マスの数字を順に消していくのがルール。まずは横一列に2つの数字が出ればアンボ(ambo)、3つでテルノ(terno)、4つクヮテルナ(quaterna)、5つチンクィーナ(cinquina)、そして15マス全てが消えたら、トンボラ!日本のお正月の双六やカルタとりのように、家族や友人、老若男女問わず皆で楽しむ、イタリアの伝統的な団欒の一時。そしてイタリアではメリークリスマスをこう言います。

BUON NATALE! 

皆様よいお年をお迎え下さい。

死者の日

コモ2.JPG      112日は、イタリアのお彼岸にあたる日、「FESTA DEI MORTI」(死者の日)。今は亡き人々が、現世に生きる家族や友人たちに会いにやって来る日と考えられており、人々は家族揃ってチミテッロ(お墓)参りに出かけます。

私たち家族は毎年この日、夫の恩人のお墓参りのため、その恩人のお嬢さんマリーナと共に、コモ湖畔の街ベッラージョに出向くことにしています。ミラノから車で一時間余り、コモ湖はスイスと国境を接し、古代ローマ時代から欧州の王侯貴族や芸術家を惹きつけてきた風光明媚な有名リゾート。その中でもベッラージョは、「コモ湖の真珠」と称えられ、その昔貴族達の建てた数々の豪奢なヴィッラ(館)が湖畔を彩る、一際美しい街です。アメリカのラスベガスには、この街を模したテーマパーク的ホテルも存在するほど。墓地は湖に面した坂道の中腹にあり、晴れた日にはそこからアルプスを背景とする対岸の絶景を望むことができます。例年通り我々は、墓地近くの花屋でクレサンティーモ(菊)の大きな鉢植えを買って、墓前にお供えして故人を偲び、その後お決まりのレストランで会食する...。こうして日本のお彼岸同様の、しみじみとした一日を過ごすのです。

ところでミラノ市内には、チミテッロ・モニュメンターレ(記念墓廟)と呼ばれる大規模な墓地があります。墓地と入っても、ここは壮麗な納骨堂や、6000体以上もの彫刻が立ち並ぶ、野外美術館のごとき観光名所。例えば文豪マンゾーニ、大音楽家トスカニーニやヴェルディなど、イタリアの著名人もこの場所に眠っているとのこと。ベッラージョの墓地もそうなのですが、日本のお墓のイメージとはちょっと違い、少なくとも表面的には、「天国への入り口」といった不思議な明るさ、ある種の「祝福」が感じられると思います。

しかしイタリアは基本的には土葬で、一定期間(50年以上?)経つと、掘り起こして埋葬し直すとか。そういえば我が家の側のサンタンブロージョ教会で、ガラスケースの中に陳列されている2人の聖人は、飴色に変色したしゃれこうべがつやつやと光る「骸骨」そのものが豪華な聖衣を纏って横たわっている。またフランスのパリにも、土葬後の骸骨の置き場所になっているカタコンベ(地下墓地)があって、600万体もの骸骨が壁のように積まれている...。日本人の感覚からすれば、西洋のこれらの風習だけでも充分ショックですが、ローマには、想像を絶する「骸骨寺」が存在します。サンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会。ここはカプチン派の修道士が、同僚だった修道士4000体のもの骨を使い、建物の内部をデコレーションしたという、「芸術」と「おぞましさ」紙一重の墓所なのです。頭蓋骨から指の骨まであらゆる種類の人骨を用い、天井画からシャンデリアまで、室内装飾は全て人骨。ある方がここを、「狂信から生まれた無邪気」と表現されていましたが、言い得て妙。唖然とするのは、同僚修道士の骸骨をデコレーションに使うという精神状態。目の前に確かに存在する、突き抜けたグロテスクの極みを前に、私は恐ろしさも忘れ、立ち尽くした体験でした。

ブドウの収穫・フィオレンツォーラ

  フィオレンツォーラ7.JPGミラノ中央駅からパルマ方面行きの電車に乗って約一時間。到着したフィオレンツォーラ駅から、車でさらに30分あまり走ると、こんもりとした緑色の小高い丘がいくつも連なる美しい地域に到着します。娘のクラスメート、ジョルジョの別荘は、その丘のひとつに建てられていて、そこからは、延々と続く丘の連なりと、今も人が住んでいるという古城や、近郊の小さな村々といった絶景を、遠くに臨むことができます。この地域一帯を、ジョルジョのお祖父様、お祖母様ご夫妻が所有しているので、彼ら一族が各々別荘を構え、その辺りの自然を綺麗にしつらえているのだそうです。毎年秋には、ブドウの収穫が恒例で、別荘の目の前の丘の尾根に作っているブドウから、プロに頼んでワインを造ってもらうとのこと。今回はそのブドウの収穫の日。音頭を執るジョルジョのお父様ステファノの指示で、ご家族や招かれた友人達、また近所の人たちと共に、ぶどう狩りを体験しました。

最初にここを訪れたのは3年前、ジョルジョのお誕生日会でした。招かれた子供たちは、目の前に広がる広大な緑の敷地の中で、企画されたサッカーや、綱引き、袋跳び競争、パイ投げなどに熱中し、付き添いの大人はデッキチェアーで寛ぎながら、丘の上から子供たちの興じる姿を眺めたものでした。それはカジュアルな企画ではあっても、映画で見るような「園遊会」といった趣きで、そのヨーロッパ的な優雅な雰囲気を、堪能した一日でした。

ジョルジョのお母様、エレナと懇意になるにつれ、家族ぐるみでフィオレンツォーラに招かれるようになりました。ラベンダーの収穫や、当地特産のサクランボやきのこを味わいに。今年の5月末には、プールに入りにおいでと誘われて。プール開きには少し肌寒いこの時期、家を取り囲むバラの花が満開で、その溢れんばかりの美しさに感嘆。むせ返るほどに咲き乱れる沢山の種類のバラは、その花びらでバラ水を作るのだとか。またぶどうの苗の畝の最前列にも、バラの苗が一本ずつ植えられているので「これは飾り?」と尋ねると、「ブドウの苗が病気にかかっていないかを調べるため、ここに植えるのよ。バラの木が枯れたら、その列のブドウも病気に罹っている恐れがあるんですって。」とのこと。季節折々、ミラノの日常とはまた別のところで、豊穣な自然との語らいを人生の一部にしている、そんな感じでした。

今回の体験もしかり。積み上げられたいくつもの大きなかごの中に、狩ったぶどうの房を投げ込み、つまみ食いしたぶどうの汁で、口の周りや服を汚しながら、子供も大人も大騒ぎ。エレナのお父様はフレンツェのご出身で、こよなく愛する故郷、トスカーナの田園風景に、どことなく似ているこの地を、別荘地に選んだそうです。数年前旅した麗しきトスカーナに、私も束の間思いを馳せつつ、本格的な秋の訪れを祝うお祭りを楽しんだ週末でした。

サルデニア・再び

サルデニア再び.JPG旧知の友人トマーゾが所有するヨットで、夜を徹してサントロペからコルシカ島、そしてサルデニア島へと向かうところに同船させてもらいました。天気はよかったものの、私は船酔いがひどく、「イルカがいたぞ」との声にも朦朧状態。夜明けと共にやっと、コルシカ島に到着。島へ上陸前に岸壁沿いに船を止めて、皆で海にダイブ。その冷たい海水が、限りなく透明で美しかったこと。周囲には船影も無く、我々のヨットだけが朝焼けの中でたゆたい、全身が海の中に溶けてしまったかのような、不思議な開放感を感じました。

コルシカ島から今度はサルデニアへ。島の北部、世界屈指のゴージャス・リゾート地、ポルト・チェルボに入港です。コスタ・スメラルダ(エメラルド海岸)というその名の通り、エメラルド色に輝くこの辺りの海は、贅と洗練を尽くしたリゾート・ハイライフが繰り広げられることでもつとに有名な場所。街の中心部は世界の高級ブランドショップがテーマパークのように軒を連ね、そこを闊歩する美しく日に焼けた人々が、街を彩ります。

マリーナに逗留中のヨットやクルーザーは、目を見張る豪華さ。ピカピカに磨き上げられ、ガードマンに守られながら、その雄姿を競いあっています。この時期、娘の同級生ジャダが、家族と共にこの地の別荘に逗留中。彼女のお父様は、イタリアでは有名な一族出身の著名な冒険家なのですが、彼らが所有しているクルーザーに招待していただきました。この桁外れなクルーザーは20名ほどの招待客やシェフ、給仕のみならず、生バンドまでも乗船し、このまま外洋へ出ることも可能だとか。リゾートを知り尽くした、セレブリティならではのドラマティックな生活を垣間見るひと時でした。

さて私たちは、そこからごく近い海岸沿いのコンカ・ヴェルデという場所に、別荘を借りて過ごしました。ハイライフのイメージの強いサルデニアですが、島の内陸部は、むき出しの岩肌やそれを覆う緑濃い松やオリーブの木、それに背の高いサボテンやアロエの茂る景観がどこまで続き、どこか荒涼とした印象。一昔前に、一世を風靡したマカロニウエスタンは、この島のこの景観の中で撮影されたというのもうなずけます。別荘の周囲は、野うさぎや野鳥、イノシシなどが生息し、強い風が吹きすさぶこともある、ワイルドな自然環境。海はやはり、限りなく美しく、シュノーケリングでは息を呑むような別次元の世界に浸ることができます。地中海で獲れた新鮮な魚介や、存分に太陽を浴びて美しく色づいた野菜や果物を購入する贅沢。海から登る真っ赤な日の出を眺め、木々の間に、信じがたいほど大きな満月を望む。一日があっという間です。

バカンスは、確かに自分の中身を空っぽにすること。でもそれだけではなく、荒々しい自然の中、五感をフルに回転させて、眠っていた野生の感覚を呼び覚まし、心身にエネルギーを満たし、忘れているもう一人の自分自身を確認することだと実感。サルデニア島は、イタリア本土とはまた別の、特異な文化を持つところとしても知られますが、不思議な伝説や解けない謎、超常現象も多く、古い歴史が確実に息づいているところ。ここに集う人々に様々な形でその恩恵を施し、甘さも厳しさも含め、生きることへの悦びの全てを教えてくれる至福の場所。そういっても過言ではないでしょう。

夏・八ヶ岳生活

 ミラノでは、日本人の友達と遊ぶ機会もほとんどなく、家族と話す時以外は、イタリア。八ヶ岳8.JPGというわけで彼女は、長い夏のヴァカンツァを利用して、毎夏日本に里帰りし、その一ヶ月ほどを日本の小学校での体験入学にあてています。家族の別荘のある、八ヶ岳に滞在しながらの「日本の小学生」体験も今年で3年目。気持ちよく受け入れて下さる学校の方々やお友達に、いつも感謝しながらの充実の毎日です。

イタリアでは、条例によって小学生以下の子供は、保護者が付き添わなければ一人で外出することができません。だから娘にとっては、日本の通学までもが、まるで冒険の様な体験。富士山を遠くに望み、八ヶ岳連邦に見守られながらの通学です。ランドセル、給食、ラジオ体操、日直や係の仕事、クラス掃除の雑巾がけさえが、全てカルチャーショック。日本語での朗読がうまくなり、知っている漢字や日本語のボキャブラリーが急速に増え、彼女の日本人としての引き出しが出来ていく体験が満載なのです。

また八ヶ岳ならではの体験を、と、牧場で乳牛の乳搾り体験をしたり、乗馬に挑戦したり、高山植物を観察しながら登山したり、捕まえたカブトムシやクワガタを飼育してみたり、葡萄のように大粒のブルーベリーを摘んだり、温泉を楽しんだり。物心の付き始めた2歳頃、ここで土を触って「臭い」といった娘も、今ではすっかり自然児、しっかりと日本の夏の生活に溶け込んでいるかのように見えました。

しかしこんなことがありました。小学校の先生から、子供達に是非イタリア語の歌を聞かせて欲しいという依頼があり、その選曲のため、娘と一緒にカンツォーネのCDを聞いていてときのことです。イタリア語のフレーズが、スピーカーから流れ出した途端、娘は急に泣き出したのです。「言葉(イタリア語)が、直接私の心に飛び込んでくる。心が真っ赤になって、どうしても泣けてしまうの。」と言って。彼女の様子をつぶさに見て、私は絶句しました。異国に、イタリアに生まれ育つということは、こういうことだったのか。こちらの生活で遮断されていた「イタリア」が、急に堰を切ったように彼女の中に蘇った、というのでしょうか。娘の場合、結婚してからイタリアに暮らし始めた私のように、母国での生活や教育を軸にして、取捨選択しながら次第に異国の世界観に慣れていった、というのではなかった。彼女にとっては、イタリアこそが自分の根を張る唯一の地であり、かの地のあらゆる事象・・生活を、文化を、言語を、自分自身の全世界と受け止めて、シャワーのようにそれらを浴びながら血肉とし、全身全霊で生きていたのでした。

日本の小学校の先生からは、柔軟性があると驚かれていますが、実はこれは、バイリンガルとしてのアイデンティティ故のことだったのかもしれません。二つの文化を生きるということは、何物にも変えがたく豊かなこと。しかし、と同時に、その狭間で彼女は、非常なストレスも受けていると思い知った瞬間でした。「今、私の(イタリアの)扉が閉まったから大丈夫。だって日本も大好きだから。」その後、彼女はこう言いました。バイリンガルとして、これからの成長の過程できっと、何度も体験するだろう大きな「矛盾」を、どうか大きな力に変えて、自分らしく育って欲しい。親としてこう祈らずにはいられませんでした。

ヴァカンツァ

  サルデニア子ども13.JPG今から3年前の夏。私達はサルデニアの海辺で、一ヶ月を過ごしました。2kmほど離れたところに、食料や日用品が購入できる店があるきりの、手付かずの自然が残る、それは美しい場所でした。同じ敷地内に、もう一軒だけ家が建っていて、ヴェネチアから来たという音楽一家が滞在していました。ご主人は日本への演奏旅行も体験済みの、イタリアでは著名なリュート演奏家。奥様はメゾ・ソプラノの歌手で、5人の子供たちと一緒でした。特に6歳のロレンツォとは、娘と年頃が近いこともあって、毎日一緒に過ごしました。

彼の賢いことには、本当に驚きました。ある朝、娘が勉強中のひらがなを見て、こちらが教えもしないのに、「母音のあ、い、う、え、お、に、『K』をつけると、か、き、く、け、こ、になるんだね。」といった具合に、自分で規則性を見つけ出し、物凄い集中力で文字を模倣して、その日の内に覚えてしまったのです。折り紙の鶴も、見るだけで簡単に折ってしまいます。また絵の上手なこと。「これはローマ時代の船なんだ。本で見たことがあるんだよ。」ロレンツォの描いた絵は、6歳の子供が描いたとは思えないほど手の込んだもので、船体に小さく書き込まれた窓一つ一つからは、その時代の兵士の顔が覗き、帆船の帆には、美しい不思議なデザインが記されて、錦のように様々な色で塗られていました。彼は大学生のお姉さんの本を読み、毎日私達に、様々な新しいことを報告してくれます。エジプトの象形文字に凝って、毎日その文字で綴った手紙を、娘や私にくれたりしたことも。娘が彼に「これは何?」と尋ねると、本で仕入れたエジプトに関する歴史の話を、活き活きと聞かせてくれるといった具合でした。お母様によれば、彼は知能指数がすこぶる高く、既に小学校の教育課程を終えて、中学校に編入しているとのこと。お母様は「ただ、同年齢の子供の友達がいないことが悩みの種なのよ。」と。でも、特別に頭がいいことを除けば、年相応の無邪気さと、素直な感受性をきちんと維持していて、生来の優しさが自然に感じられる、大変魅力的な子供でした。大らかな家族に、その個性を潰されることなく、すくすく育っているという感じ。彼のみならず、11歳のお兄さんトンマーゾも、とても綺麗な優しい男の子で、娘をカヌーに乗せて、海辺を探索したり、「これはマドンニーナというんだよ。」と、マドンナの横顔に見えなくもない、渦巻状の模様のついた、小さな貝の蓋を砂浜で探して、プレゼントしてくれたり。皆に可愛がってもらって、娘もまるで兄弟の一員のように走り回っていました。

子供たちは皆、バイオリン、チェロ、フルート、クラリネットなど、各々が違う楽器を学んでいて、シエスタ(昼休み)の後には、旅先に持ち込んだ楽器を、家族で演奏するので、私達は毎日、彼らの小さなコンサートを楽しんだものでした。時々夕食を一緒にとって、ダーツをしたり、トランプに興じたり、話をしたり。愛すべきお隣さんとの、思い出深い、平和な夏がこうして過ぎていったのでした。今年のヴァカンスは、さてどんな体験が待っているのでしょうか。

モンテッソーリ

 イタリアの小学校の授業は、9月半ばに始まり6月で終わります。学年終了前、パスクワ後の5月、6月初旬は、学校やお稽古の発表会、また春の遠足、学年末パーティなどの予定モンテッソーリ3.JPGが目白押し。その後は、3ヶ月という長い夏のヴァカンツァ(休暇)です。我が家の場合は、日本の夏休みが始まるまでの1ヶ月を、日本の学校での体験入学にあてているため、毎年日本帰国していますが、イタリア人に言わせると「ヴァカンツァに学校?本気?可哀そうに!」。ヴァカンツァ。つまり「空白」、何もしない時間。義務から解き放たれて、再び蘇るため不可欠な期間なのです。加えて、年度によって多少異なりますが、今年の場合、ナターレ(クリスマス)休暇が18日間、カルネバーレ(謝肉祭)休暇は1週間、パスクワ(復活祭)休暇10日間と、エネルギーが切れてきた頃に、ちゃんと長期休暇が準備され、その度毎に、ラテンの血を充電し直すというわけです。

娘は「モンテッソーリ学校」に2歳から通い始め、この6月で小学校3年生を終了したところです。この学校は、ローマ大学医学部に女性で初めて入学し、優秀な成績で医学博士号を獲得したマリア・モンテッソーリというイタリア人が生み出した、独自の教育メソードを実践していて、先生が生徒に教えるというよりは、子供たち自身が各々の進度と興味によって、課程を進めていきます。授業は、考えるプロセスを重要視した授業が中心で、小学校課程では、日本の様な暗記や反復を徹底する授業は、ほとんどないのではないでしょうか。まずは、知識の量より発想力。謎の前に立った時、答えを単に暗記するのではなく、謎の解き方を自分自身で考え、自分自身で答えを導き出す訓練をしている。宿題もほとんどなし。ただし難解といわれるイタリア語の文法だけは、厳しく叩き込まれるようで、細部の怪しいイタリア語を話す私も、この頃は娘に直されることしきりですが。

マニュアル通りに動かない(動けない)このイタリアの社会は、(私の)常識では計り知れない問題が頻繁に起こり、特に日本の肌理細やかな秩序に慣れた在邦人は、戸惑うことが多々あります。「驚くべき、ありえない事件」に、私も何度遭遇したか知れません。しかし、いざという時でも、何とか機能している。マニュアルによるのではなく、臨機応変に問題に対処して、その場しのぎ的であるにせよ、その場の「ひらめき」の様なもので、解決していく、といった感じでしょうか。だからモンテッソーリ・メソードも、このイタリア社会のあり方と、無関係ではないと感じます。

フィアットで働くイタリア人の友人から、こんな笑い話を聞いたことがあります。「車の気密性を検査するため、完成した車両の中にウサギを入れるとする。日本車では、ウサギが窒息すれば合格、イタリア車ではウサギが逃げ出さなければ合格。」もちろんたとえ話ですが、この話は日本とイタリアの国民性の違いを、伝えてくれるかもしれません。カトリックがその基本にあるこの国は、まず「罪ありき」で、何事も完璧であることを求めないように思います。人間は完璧ではない。ウサギが逃げない程度に仕上げ、後はその場に応じて柔軟に処するべきで、むしろこの未完成さこそが、大切になることもあるのだ、と。よってヴァカンツァも、必然。イタリア人の一つの哲学といえば大げさでしょうか。

ミラノ・花の季節

  花の季節5.JPGパスクワ(復活祭)を過ぎると、ミラノは春爛漫。ミラノ中心にあるジャルディーノ・プブリチ(プブリチ公園)では、毎年5月に「オルティコラ・ディ・ロンバルディア」(ロンバルディアの園芸)という、大掛かりな園芸関係の青空見本市が開催され、ミラネーゼの春の行楽の一環として、毎年多くの人出で賑わいます。この「オルティコラ」を楽しんだ後、友人宅の花盛りの庭で開かれる「子供のためのフラワー・アレンジメント教室」に、娘は友達と一緒に参加するのが、恒例行事となっています。咲き誇るバラの中、子供達はめいめい、この年の春を造りあげるのです。

アレンジメントの先生マルゲリータは、コルソ・マジェンタ界隈にある花屋さんの、とてもシックなオーナー。この店は、小さいながらも彼女の穏やかな人柄ゆえにファンが多く、マルゲリータが園芸雑誌に連載しているアレンジメントのコーナーは、そのセンスのよさで評判だそうです。この教室では、花やオアシスの扱い方といった基本から、配色の妙、花の大きさやバランスの活かし方、グリーンの分量や配置など、結構専門的なことまで、子供にもわかるよう、とても丁寧に教えてくれるので、横で見ている私まで勉強になります。

生け花をかじったことのある私は、禅に由来する哲学をその背景に持ち、動かぬ定型のある生け花と、あくまで装飾の美しさを求めるフラワー・アレンジメントは、基本的に違うもの、という先入観がありました。しかしマルゲリータとの出会いで、アプローチと表現の仕方は違えども、美の本質に触れようとする姿勢には変わりなく、共通点も沢山あると思うようになりました。マルゲリータは娘の作品を「とても繊細で調和がとれていますね。これは作者の内面と重なるのですよ。同じ花を使って同じように作っても、その人の個性はきちんと出てくるものなのです。」といい、フラワー・アレンジメントは、作者の人柄や精神状態までもが透けて見える、一つの世界を表現しうる物なのだ、ということを実感したからです。私は生け花を活ける時、その行程を自分の内面を見つめる手段の一つとも考えていたので、彼女の話には素直に合点がいきました。単なるデコレーションから一歩踏み込んだ、フラワー・アレンジメントの愉しみ。また一つ西洋文化に親しむ扉が増えました。

ミラノに暮らし、イタリア人の感性に触れるに機会が増えると、逆に、日本人の持つ細やかな感受性、誠実さ、慎みの美を、殊更感じ、日本という国を外側から眺め、自分が日本人であるということを、深く自覚するようになります。娘はミラノで生まれ、2歳の時からずっとイタリア人と一緒に学んでいますが、芽生えだした性格には、イタリア育ちという面と、両親が日本人であるという血の部分が混じりあっていて、それが今後くっきりと、彼女の新しい個性となっていくのだと感じています。娘は春に日本帰国したことがないので、まだ日本の桜を未体験。「桜の樹の下には死体が埋まっている」ことを未だ知らず、彼女の日本人としての春の美意識は、まだ眠ったまま。いつか娘が、満開の桜の下をそぞろ歩き、日本人として血の騒ぐ経験をする日が、私も今から楽しみです。