ボルツァーノからドロミテへ
娘の小学校が終業したこの6月上旬、訪伊中の母と妹を伴って、イタリア北東部に広がるドロミテ渓谷を旅しました。この地域は昨年2009年、その特異な景観と地質学的な重要性が評価され、ユネスコ会議で「世界自然遺産」として登録されたばかり。また山歩きを趣味とする母にとって、「ドロミテ」は憧れの地の一つ。ここへの訪問を以前から切望していたこともあり、雪解けを終えた春の旅を決めたのでした。
ミラノ中央駅からヴェローナ経由で約3時間半。列車はボルツァーノに到着です。ここはその昔、モーツァルトやゲーテも逗留したというドロミテ西部の中心地。地理的には南チロル地方に属し、歴史的にはオーストリア支配を経験したことから、イタリアらしさを残しながらも、街はドイツ語圏の雰囲気が濃厚で、表記はイタリア語とドイツ語が併記され、聞き慣れないドイツ語が耳に飛び込んできます。ここボルツァーノで有名なのは「アイスマン」。「アイスマン」とは、氷河の中から「冷凍状態」で発見された、何と5300年前の人間のミイラのこと。このミイラについて、学校で学習済みの娘は対面を楽しみにしていて、博物館に冷凍保存展示された、グロテスクではあっても、まだ肌に湿りを残す奇跡的なその姿に、少なからぬ感銘を受けたようでした。
別の日には、高級保養地として名高いメラーノにも足を延ばし、テルメ(温泉)体験を。西洋の温泉はプールのように水着着用です。温泉療養のために長期逗留する人ももちろんいるのですが、サウナやエステ施設も充実したレジャー施設といった感じ。テルメの後は、ビールにソーセージ、シュークルト(キャベツの酢漬け)とドイツスタイルで寛ぎました。
さて今回の旅のメイン、ドロミテ観光には、西部ドロミテの見どころをピンポイントでくまなく周遊できると定評のあるバスツアーを利用しました。ドロミテ渓谷は、オーストリアやドイツにまたがるアルプスの狭間。それもあってか、私たちが参加したツアーはドイツからの参加者ほとんどで、彼らのあまりの行儀のよさに、イタリアに慣れた娘は「なんて静かでお行儀がいいの!」と驚くことしきりでした
起点のボルツァーノから少しバスを走らせると、林間から突然視界が開け、チロル地方の牧歌的な田園風景の背後に、遠い昔はサンゴ礁の拡がる海の底だったという荒削りな岩峰がそびえ立つ、壮大なパノラマが繰り広げられます。鮮やかな緑と白っぽい岩石群、またくっきりとした稜線と空とのコントラストは、ドロミテならではの風景で、他のアルプスの山岳風景とは趣が異なり、とても新鮮でした。
この日は霧に煙る天候で、視界がかなり制限されていたものの、ゆっくりと走るバスの大きな車窓から、天に向かって高くそびえるダイナミックな奇岩群を、あらゆる角度から眺める体験は圧巻。見る場所や角度、時間や天気によっても、山の表情は多様に変化するのです。絶景の誉れ高いスイスの「氷河特急」を体験済みの母も、ドロミテの景観は格別だという感想。ガイドの説明によれば、日の出や夕暮れ時、太陽の照り返しを受けて、岩が茜色やばら色、すみれ色などに刻一刻と変化する様子は、見たものにしか解らない美しさだとか。大地に刻まれた波の記憶の傍で、気の遠くなるほどの時の流れに思いをはせつつ、ドロミテの再訪を心に決めていた私でした。
ミラノの中の日本2
TOYOTAがこれほど世界で叩かれても、SONYやPANASONICがSAMSUNGに抜かれても、今のところまだ、ミラノの「日本ブランド」人気は揺らいでいないと思います。日本車に乗り、無印良品で買い物をし、ドラえもんやポケモン、ドラゴンボール、プリキュアなどの日本アニメで育ち、ヘロ・キッティ(サンリオのハロー・キティ)のTシャツを着て、WiiやDSで遊び、週末にはSUSHIを食べる。こんなイタリア人の子供も、この頃では珍しくはありません。
友人のマルコは30代。日本びいきの彼は、イタリア語に翻訳された日本のフメッティ(漫画)、谷口ジローの「L'uomo che cammino」(歩く人)を私に贈ってこういいました。「これが僕の日本の印象なんだ。」一読すると、一人の男を通して描いたごく日常的な風景のスケッチ、といった作品で、その淡々した味わいは、小津安二郎を思わせる。昭和の、あるいは少し田舎の、まさに等身大の懐かしい日本。でもこれほどまでに日本的なものが、イタリア人にも受け入れられているなんて。
KUROSAWAやOZUが尊敬され、宮崎駿や北野武の映画には観客が集まり、HARUKI MURAKAMIがベストセラーに入り、ヴェネチアのビエンナーレ、OTAKU展が盛況で、世界中から人の集まるミラノの家具の見本市の、日本人ブースは超人気。それはニューヨークやパリでのもてはやされ方と似ていて、ミラノの中の日本は、今やエキゾチズムを超え、特にサブ・カルチャー分野が「時代の空気」として存在している。未来世界に一番近いアジアの国、伝統と現代が混在するユニークな国、それが今の日本のイメージなのです。あるいはこんな現象も、このグローバリゼーション世代には当たり前のことなのかもしれません。
しかし海外に暮らしていて痛切に感じるのは、日本人として、まず日本史や地理、文化をしっかり知っておくべきだということ。日本人であるということ、つまり自分のアイデンティティの根の部分をしっかりと認識することが何にも増して大切なことだと、折に触れて痛感します。大げさに言えば、日本の歴史の延長に自分がいることをいつも思い知るのです。日本に浸って生活していた頃は、その周囲の文化は自分の体臭のようなもので、敢えて意識する機会は殆どなかった。でも他の文化の中に身を置くようになり、日本を客観視する機会が多くなった時、本当の日本の姿、ひいては自分自身の姿が浮かび上がってくる。きっと、海外に暮らしたことのある人は皆体験したことでしょうが、これが私にとっては、様々な意味で大きな転機でした。
毎日濃厚な西洋文化に囲まれながらも、私の無意識の部分は、日本独特の美を常に感じている。ここにはないはずの日本を、西洋文化の向こう側に、透かして見ている。もしかしたら、この感覚は外地で暮らす者の、故郷へのノスタルジーなのかもしれません。でも日本に元気がないと言われる昨今、本当の日本という国の姿を、日本人として再認識していきたい、そして娘にも、この部分だけはしっかり伝えたいと、感じずにはいられません。
ミラノの中の日本1
ミラノの中心部にあるセンピョーネ公園に隣接して建つ「トリエンナーレ」。モダン・コンテンポラリーアートや建築・インテリア関係の展覧会が多く催される近代美術館で
、併設のカフェ人気とも相まって、ミラネーゼの人気スポットの一つとなっています。東京にも支部があるとか。先日この美術館の一室で「L'estetica del Sapore-un'arte giapponese」(味覚の美―日本の芸術)と題した企画展が開かれました。展覧会自体は和食など日本関連のパネル写真や、日本の食堂などで見かける「食品サンプル」の展示のみと、小規模なものでしたが、オープニングパーティや、この展覧会のために企画された和食パーティは、人が溢れ返るほどの大盛況。イタリア人の和食に寄せる関心の高さを、改めて感じました。
洗練された食文化を持ち、味に関しては極めて保守的だといわれるイタリア人。それでもミラノでは、クッチーナ・ジャポネーゼ(和食)ブームが続いています。和食レストランがどんどんオープンし、回転寿司やテイク・アウェイショップを見かけるようになり、スーパーでも出来合いの「SUSHI」が手軽に手に入り、宅配ピッツァならぬ「出前」まであるらしい。魚屋では「SASHIMI」という言葉が通じ、日本料理教室に通うママ友も結構いて、日本人代表として「賞味番」を頼まれることもしばしば。この現象はここ数年のことで、私が暮らし始めた十数年前には考えられなかったことです。当時数件あった日本料理店は高級店が多く、どちらかというと日本人御用達といった感じでした。でも今はそんな特別な感じは全くありません。ただ近頃の和食店は、料理人が中国人やブラジル人など日本人でない場合も多く、ある時など「えびの天ぷら」の衣が「アメリカンドッグ」のように膨れていて驚いたことも。また和食を学んだイタリア人が創作する、和風のフュージョン料理的なメニューも多いので、実際のところ、日本人の料理人の作る「純」和食は、意外に少ないのかもしれません。
我が家でのおもてなしの献立も、リクエストもあってほとんどの場合が和食です。手に入りにくい食材は日本から直接持ち帰るか、「アジアン・マート」という外国料理食材を扱う店や、BIO製品を扱う「チェントロ・ボタニコ」で購入。毎日のお米は「イタヒカリ」。「苦い米」という名作イタリア映画で有名な、ミラノ近郊の街、米どころのパヴィアで栽培された「コシヒカリ種」だそうですが、なかなか美味しいものです。
さて友人たち。最近は皆随分箸使いがうまくなったとはいうものの、お箸を一本ずつ左右に持ち、まるでナイフフォークのように扱いながらお刺身を切る人。白米に醤油をぶっ掛ける人。総じて猫舌な彼らは、汁物は冷めてからさじですくって。食事中は音を立てないように、蕎麦やうどんも決して啜らず静かに口にしまい込む。「三角食べ」をせず、まず汁物だけ、それからメインだけ、そして最後に白米だけと、イタリアンマナーで食べる姿は何とも興味深い。でも結局はすし、天ぷら、とんかつ、照り焼きなど、味のはっきりしたものが好みで、本来の和食が持つ、繊細な味わいはどうも難解、ミステリオーゾ(神秘的)といったところのようです。
アルハンブラ宮殿
「アルハンブラ宮殿を見に行こう。」夫が言い出して決めた今年のパスクワ(復活祭)休暇。ミラノからスペインの首都マドリッドまで、飛行機で1時間半。ここマドリッドアトーチャ駅からAVE(スペイン版新幹線)で、スペイン南部のアンダルシア地方、コルドバに入り、ここで一泊した後、今回の目的地グラナダに到着しました。
スペイン屈指の世界遺産アルハンブラ宮殿は、グラナダを見下ろす丘の上に築かれた城塞です。アラビア語で「赤い城塞」を意味する言葉がなまったものだそうで、スペイン語では「アランブラ」と発音します。イスラム教の「虚を捨てて実を取れ、心は外見に勝る」という基本原理を忠実に守って、外観は意外にシンプル。しかし宮殿に足を踏み入れると、高度に洗練された驚くべき空間が広がっていたのです。
いくつかの部分に分かれるアルハンブラですが、圧巻は王宮。そこは華麗なアラビアン・ナイトの、夢の世界そのもの。壁面にびっしりはめ込まれた、繊細な模様のタイル、光を取り入れるための、意匠を凝らした透かし彫りの窓、アラーの神が住む天国を象徴する、無数の星がちりばめられた天井、それら全ての細工は、惜しみなく装飾された、緻密の極みです。残念なことに今回は、見所の一つ「ライオンの中庭」の12頭のライオンの噴水が修復中で不在ではありましたが、この中庭に立つ124本の大理石の柱の装飾は、アラビア建築の最高峰といわれるだけあって、息を呑む壮麗さです。中庭の一角にある、その美貌を「宇宙の美」を代表すると賞せられた、愛妾リンダラハの住んだといわれる部屋の、鍾乳洞のような5200もの大理石の氷柱が施された天井の、ため息が出るほどの美しさ。アラビア建築に天井の装飾が多く見られるのは、床に直接ひかれたじゅうたんの上のクッションで寛ぐ習慣から、視線の先が天井になるからだということでした。
また驚くことに、美女のひしめくこの部分の護衛兵はすべて「宦官」でした。特に浴場部分は、厳しい戒律から解き放たれた王が、快楽に溺れるところを見ることができぬよう、また王以外の男性が全裸の美女を見ることができぬよう、宦官にされた上、目も潰されたのだとか。何という残酷、そして何という官能...。
アラーの神のみを絶対と仰ぐアラビア人は、人間が完全なものを作ることを神に対する冒涜であると考え、例えば垂直でない柱や平行でない天井、傾いたアーチなど、敢えて不完全な部分を残すようにしているということも、私には興味深く感じられました。そして王は、このような壮麗な建築物を、他の場所で二度と再現することがないよう、建築に携わったこれほどまでに優秀な芸術家たちを、最後には処刑してしまったということ。またしても、何という残酷...。
アルハンブラ宮殿は、イベリア半島を治めた最後のイスラム王国の王が、地上に求めた最後の楽園。そしてその帝国は滅んでも、異教徒の地となったスペインに、今なお輝かしい記憶を艶かしいまでに残している。ヨーロッパの芸術の歴史遺産に慣れ親しんでいたはずの私も、その絢爛さには瞠目することしきりで、ヨーロッパにいながらイスラム文化に触れ、その思想や習慣をより深く知る機会ともなった、大変印象深いスペイン体験でした。
アレーナ・ディ・ヴェローナ
この2月ミラノに立ち寄った友人が、マルペンサ空港から日本帰国便に乗り込んだところ、同乗した約200人がなんと「アレーナ・ディ・ヴェローナ」出演者だった、と知らせてくれました。プラシド・ドミンゴとの日本公演のための来日だったらしく、イタリア人音楽家軍団を乗せた飛行機は、さぞや賑やかだったのでは、と尋ねると「機内では皆テンション高くて、私は眠れなかったわ。」と苦笑していました。
「アレーナ・ディ・ヴェローナ」とは、ミラノ近郊の街ヴェローナにある、街のシンボル的屋外円形劇場のこと。古代ローマ時代に闘技場として作られ、収容人員は25000人と壮大なスケールで、毎夏ここで催される野外オペラは、日本に凱旋するほど世界的に有名です。私も数年前、ここでヴェルディのオペラ「アイーダ」を観劇しましたが、本当に「スペッタコローゾ(大掛かりで華やか)!」でした。アレーナの外側に準備された、出番前の舞台セットの大きさに、まず圧倒されます。夕暮れから開幕する舞台は、巨大な遺跡の醸しだす古代の雰囲気を充分に活かし、まるでタイムスリップしたかのようにムード満点。その演出は、煌々と火を灯した松明を持った勇者を大勢配したり、舞台上に作られたナイル川に船を浮かべたり、本物の象が登場したりと、古代エジプトの壮麗さを現出させるかのような、並外れて豪華なものでした。公演には当代最高レヴェルのオペラ歌手達が競演し、音響効果も素晴らしい。この時「ヴェローナ・ディ・アレーナ」は、華麗で熱狂的な、「真夏の夜の夢」へと観客を誘う、オペラのスタジアムと化すのです。
このアレーナのあるヴェローナという街自体も、ユネスコの世界遺産にも指定されるほどの、特筆すべき麗しき古都。優雅な街並みにたくさんの見所を擁していますが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台として、つとに知られています。「おおロミオ、なぜ貴方はロミオなの?」と、恋を語り合ったとされるバルコニーは、小さな中庭に面していて、そこに置かれたジュリエット像の前で、観光客が競って記念撮影。「こんな塀ぐらい、軽い恋の翼で飛んで参りました。」とロミオに言わしめた塀沿いには、入場を待つ人の長蛇の列。名所となっている彼らの家や墓など、街のあちこちに残る伝説が、ロマンチックで愛らしい街の風情を盛り上げます。
シェークスピアは、この「ロミオとジュリエット」はじめ「ヴェローナの二紳士」「ヴェニスの商人」「オセロ」など、その作品の舞台に多くイタリアを選んでいますが、意外なことに彼自身は、イタリアを旅したことがない、というのが通説だとか。「ロミオとジュリエット」は、実話を下敷きにして創作されてはいるものの、イタリアという国にまつわるイメージが、芸術家のインスピレーションを刺激し、悲恋にふさわしい、格好の舞台装置を提供しただろうことは容易に想像できるというもの。作品に散りばめられた珠玉のセリフや詩、例えばジュリエットの「名前って何?バラと呼んでいる花を、別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま・・」といった現実離れしたセリフが、不思議なほど、ヴェローナのイメージに合っている。抒情的な輝きが日常に溶け込んだ、ロマンチックな街ヴェローナに。
ヴォーチェ・ビアンカ・シチリアーナ
TV番組に出演中の少年に釘づけになりました。「アダージョ」という難易度の高い曲を、唖然とするほどの歌唱力で歌っていたからです。迫力の声量に、声変わり前のヴォーチェ・ビアンカ(直訳すると「白い声」。ボーイ・ソプラノのこと。)の無垢な響きが加わった、忘れがたい声。横で見ていた夫も娘も、ボソッと一言「ブラボー。」彼の名はクリスチャン・インパラート、シチリア出身の13歳。「イオ・カント」(「私は歌う」)というこの番組「子供のど自慢」には、歌の英才教育を受けた子供が多く出演するそうですが、彼にその経験はなく、ただ好きで歌っていただけ、というから人々は尚更驚いたのでした。その美声は評判を呼び、翌週のこの番組の視聴率は急上昇。またユーチューブの彼の歌唱場面へのアクセスが、一週間で30万件を超えてその後も伸び続け、かのスーザン・ボイルのごとく、イタリアでは今ちょっとしたブームになっています。彼の出身地シチリアでは殊更反響も大きく、ユーチューブには「君が私と同じシチリアーノであることを、誇りに思う」といった書き込みも多くあるとか。彼の歌った「アダージョ」は、私も大好きなラーラ・ファビアンの持ち歌ですが、そういえば彼女も母親がシチリアーナ(シチリア人)。そんなことから、私は何度か旅したシチリアを思い出していました。
シチリア。言わずと知れた「マフィア」の総本山。映画「グラン・ブルー」の舞台としても有名な、世界遺産も数多く擁するイタリアの島。古代ギリシャ、ローマ、アラブ、ノルマン、フランス、スペインなどに征服された歴史を持つことから、イタリア本土とは一線を画す、複雑多様な文化体験ができるところなのです。
首都パレルモの第一印象は、正直なところ、うらぶれて暗いな、というもの。歴史的建築物は、その昔ここで多くの文化がクロスしたことを伝えて、エキゾチックで充分魅力的ですが、ここは本当にイタリアなのか?と。歴史の遺産は、人々のルックスにも及び、混血の進んだこの島では、感嘆するほどの美形もちらほら見かけます。例えば友人のシチリアーノ、ナンドは、髪はアラブ人のように漆黒の縮れ毛なのに、瞳の色は吸い込まれそうなほど真っ青。不思議な美しさです。シチリア料理も、多くの文化の影響を受け、奥深くひときわ個性的。独特なスパイスを用い、濃厚ではっきりした、しかし意外な味付けが特徴でしょうか。海産物の扱いもうまく、海の幸のクスクスには舌鼓を打ったものでした。「カッサータ」というアラブ風のドルチェは驚愕の甘さで、グロテスクなほど鮮やかに着色されています。グラニータ(微粒子のシャーベット)の滑らかな口当たりと、渇きを癒す即効性には感動。ジェラートを、ブリオッシュ(甘いパン菓子)にはさんで食べることも、私には驚きでした。
二度目の訪問で、シチリアの小島ランペドゥーザに滞在した時には、私たちのホテルに警察官の家族も滞在中。なぜかと尋ねると、アフリカからボートで、イタリアに不法入国する人々を取り締まるためだということ。ここからアフリカは、目と鼻の先なのだと実感。そうだった。イタリアといってもシチリアは、シロッコが吹き、椰子の木が茂る場所。多くの文化がクロスした記憶を持つ、特異な島だった。「アダージョ」の歌声の背景が、私の中に蘇りました。
魔女の一撃
1月6日、イタリアはエピファーナ、俗にベファーナと呼ばれるキリストが自己を顕示したことを記念する日。」とあります。この日の前夜には、ベファーナと呼ばカトリックの祭日。辞典によれば、「救世主の御公現の祝日。東方の三博士に代表される異邦人に対して、れる魔女がほうきに乗ってやってきて、良い子にはお菓子やプレゼントを、悪い子にはカルボーネ(石炭)を配り歩くと言われ、子供たちは寝る前に、枕元や暖炉の横に靴下を吊るして、「魔女の判決」を待つ日なのです。そして人々は、この日を最後にナターレ気分を一新し、イタリアはまた、日常のサイクルに戻る日でもあります。
昨年末、ベファーナとはちょっと違った「魔女」が、私を訪ねてやってきました。それは「コルポ・ディ・ストレーガ」(魔女の一撃、不意討ち)。「ぎっくり腰」をイタリアではこういうのです。朝起き抜けに、いつものようにベッドから立ち上がろうとした途端、突然腰に激しい痛みが走り、動けなくなってしまいました。とにかく安静が一番、一週間ベッドで過ごして事なきを得ましたが、その急激な痛さは、まさに「魔女の一撃」。再発防止のため、フィズィオテラピア(整体)にも出向きました。評判のイタリア人整体師だったので、少しは期待していたものの、私の知る肌理細やかな日本の整体とは、比較にならないアバウトな施術。ドイツに住んでいた友人が、ドイツの整体も痒いところには手が届かない気がする、と言っていたように、欧州の整体とはおおよそこんな感じなのかもしれません。
いずれにせよ自己管理は必須で、演劇を教える夫に「アレキサンダー・テクニーク」という姿勢術を指南され、まずは日常生活での姿勢や歩き方、動き方を意識するように。その結果、今更ながら、なるほど首や腰、背中の痛みは、間違った姿勢や歩き方に起因する部分も大きいということを実感。でも長年の習慣はなかなか改まり難く、気がつくと元に戻っていることしきりです。
ところで娘が4歳になりたての頃、かかりつけの小児科での定期健診で、脚の形がO脚気味ゆえ、一応オルトペディア(整形外科)に見てもらっては、と言われました。指摘されるまで思いもよらないこと。でも念のために、と出向いた病院の専門医から、日本人のDNAには、O脚の遺伝子が組み込まれているもの、だからそれ程心配することはないけれど、もしも気になるのであれば、と勧められたのがグゼッラの自然矯正靴。娘は既にこのメーカーのファーストシューズを愛用していたので、引き続きお世話になることにしました。
ミラノのナターレ
言うまでもなくナターレ(クリスマス)は、カトリックが国教であるイタリア人にとって、年中で一番大切な行事。この時期になると、主だった教会には「プレセピオ」といって、キリスト降誕の場所を表現した模型が大掛かりに飾られ、それを見がてら多くの参拝客が訪れます。ミラノも、カステロ(城)やガレリア(中心地にあるアーケード)、また街の通りのあちこちに、祝祭的なイルミネーションが輝きだし、ナターレ準備の買い物客で、街はごった返します。この時期、家族はじめ親しい人やお世話になった人にレガーロ(プレゼント)を贈ります。家に飾られたアルベロ・ディ・ナターレ(クリスマスツリー)の下に、包装紙に包まれたままのプレゼントを置いておき、ナターレ当日、皆で騒ぎながら、その沢山の包みを紐解くのも人々の楽しみの一つです。
25日は日本の元日のように、家族そろって盛大に祝います。イタリア各地で、ナターレに食べる料理は違いますが、ミラノではトルテリーニという、中に肉やプロシュート(ハム)の練り物が入った、小さな餃子の様な形のパスタを、ブロード(肉と野菜からとったスープ)にいれていただきます。日本の年越し蕎麦のようなものでしょうか。我が家では、プリモ(1番目の料理)にこのトルテリーニ、セコンド(2番目の料理)にはモデナの特産のザンポーネを。これは豚の足に、豚肉の細切れに香辛料を混ぜたものを詰めた、ソーセージとサラミの中間の様なもので、茹でてからスライスして食します。それに「商売繁盛」を願うレンズ豆を煮たものを添えて。これが、料理好きの夫が毎年準備する、我が家のナターレの定番なのです。
イタリアのクリスマスケーキも、地域によって様々なものがありますが、ミラノではパネットーネといって、パネットーネ菌を入れ発酵させた菓子生地の中に、干ぶどうやオレンジピールを練りこんで焼いた、ドーム型のケーキをいただきます。味はケーキとパンの中間、といった感じでしょうか。初めて味わった時は、今までに体験したことのない、しっとりと薫り高い生地の味わいに感激したものでした。日持ちするので、余ったものを後日少しあぶって味わうのもまた美味。大人はこれにスプマンテ(シャンパン)で乾杯。お気に入りのパスティチェリア(菓子店)に毎年予約して、楽しんでいます。
ミラノではこの日、トンボラ(tombola)という名のゲームをする習慣があります。これはビンゴのようなゲームで、1から90までの数字を、袋に入れるなどして無作為に取り出し、出た番号から、各々の手元にある縦3×横5マスの数字を順に消していくのがルール。まずは横一列に2つの数字が出ればアンボ(ambo)、3つでテルノ(terno)、4つクヮテルナ(quaterna)、5つチンクィーナ(cinquina)、そして15マス全てが消えたら、トンボラ!日本のお正月の双六やカルタとりのように、家族や友人、老若男女問わず皆で楽しむ、イタリアの伝統的な団欒の一時。そしてイタリアではメリークリスマスをこう言います。
BUON NATALE!
皆様よいお年をお迎え下さい。
死者の日
11月2日は、イタリアのお彼岸にあたる日、「FESTA DEI MORTI」(死者の日)。今は亡き人々が、現世に生きる家族や友人たちに会いにやって来る日と考えられており、人々は家族揃ってチミテッロ(お墓)参りに出かけます。
私たち家族は毎年この日、夫の恩人のお墓参りのため、その恩人のお嬢さんマリーナと共に、コモ湖畔の街ベッラージョに出向くことにしています。ミラノから車で一時間余り、コモ湖はスイスと国境を接し、古代ローマ時代から欧州の王侯貴族や芸術家を惹きつけてきた風光明媚な有名リゾート。その中でもベッラージョは、「コモ湖の真珠」と称えられ、その昔貴族達の建てた数々の豪奢なヴィッラ(館)が湖畔を彩る、一際美しい街です。アメリカのラスベガスには、この街を模したテーマパーク的ホテルも存在するほど。墓地は湖に面した坂道の中腹にあり、晴れた日にはそこからアルプスを背景とする対岸の絶景を望むことができます。例年通り我々は、墓地近くの花屋でクレサンティーモ(菊)の大きな鉢植えを買って、墓前にお供えして故人を偲び、その後お決まりのレストランで会食する...。こうして日本のお彼岸同様の、しみじみとした一日を過ごすのです。
ところでミラノ市内には、チミテッロ・モニュメンターレ(記念墓廟)と呼ばれる大規模な墓地があります。墓地と入っても、ここは壮麗な納骨堂や、6000体以上もの彫刻が立ち並ぶ、野外美術館のごとき観光名所。例えば文豪マンゾーニ、大音楽家トスカニーニやヴェルディなど、イタリアの著名人もこの場所に眠っているとのこと。ベッラージョの墓地もそうなのですが、日本のお墓のイメージとはちょっと違い、少なくとも表面的には、「天国への入り口」といった不思議な明るさ、ある種の「祝福」が感じられると思います。
しかしイタリアは基本的には土葬で、一定期間(50年以上?)経つと、掘り起こして埋葬し直すとか。そういえば我が家の側のサンタンブロージョ教会で、ガラスケースの中に陳列されている2人の聖人は、飴色に変色したしゃれこうべがつやつやと光る「骸骨」そのものが豪華な聖衣を纏って横たわっている。またフランスのパリにも、土葬後の骸骨の置き場所になっているカタコンベ(地下墓地)があって、600万体もの骸骨が壁のように積まれている...。日本人の感覚からすれば、西洋のこれらの風習だけでも充分ショックですが、ローマには、想像を絶する「骸骨寺」が存在します。サンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会。ここはカプチン派の修道士が、同僚だった修道士4000体のもの骨を使い、建物の内部をデコレーションしたという、「芸術」と「おぞましさ」紙一重の墓所なのです。頭蓋骨から指の骨まであらゆる種類の人骨を用い、天井画からシャンデリアまで、室内装飾は全て人骨。ある方がここを、「狂信から生まれた無邪気」と表現されていましたが、言い得て妙。唖然とするのは、同僚修道士の骸骨をデコレーションに使うという精神状態。目の前に確かに存在する、突き抜けたグロテスクの極みを前に、私は恐ろしさも忘れ、立ち尽くした体験でした。
ブドウの収穫・フィオレンツォーラ
ミラノ中央駅からパルマ方面行きの電車に乗って約一時間。到着したフィオレンツォーラ駅から、車でさらに30分あまり走ると、こんもりとした緑色の小高い丘がいくつも連なる美しい地域に到着します。娘のクラスメート、ジョルジョの別荘は、その丘のひとつに建てられていて、そこからは、延々と続く丘の連なりと、今も人が住んでいるという古城や、近郊の小さな村々といった絶景を、遠くに臨むことができます。この地域一帯を、ジョルジョのお祖父様、お祖母様ご夫妻が所有しているので、彼ら一族が各々別荘を構え、その辺りの自然を綺麗にしつらえているのだそうです。毎年秋には、ブドウの収穫が恒例で、別荘の目の前の丘の尾根に作っているブドウから、プロに頼んでワインを造ってもらうとのこと。今回はそのブドウの収穫の日。音頭を執るジョルジョのお父様ステファノの指示で、ご家族や招かれた友人達、また近所の人たちと共に、ぶどう狩りを体験しました。
最初にここを訪れたのは3年前、ジョルジョのお誕生日会でした。招かれた子供たちは、目の前に広がる広大な緑の敷地の中で、企画されたサッカーや、綱引き、袋跳び競争、パイ投げなどに熱中し、付き添いの大人はデッキチェアーで寛ぎながら、丘の上から子供たちの興じる姿を眺めたものでした。それはカジュアルな企画ではあっても、映画で見るような「園遊会」といった趣きで、そのヨーロッパ的な優雅な雰囲気を、堪能した一日でした。
ジョルジョのお母様、エレナと懇意になるにつれ、家族ぐるみでフィオレンツォーラに招かれるようになりました。ラベンダーの収穫や、当地特産のサクランボやきのこを味わいに。今年の5月末には、プールに入りにおいでと誘われて。プール開きには少し肌寒いこの時期、家を取り囲むバラの花が満開で、その溢れんばかりの美しさに感嘆。むせ返るほどに咲き乱れる沢山の種類のバラは、その花びらでバラ水を作るのだとか。またぶどうの苗の畝の最前列にも、バラの苗が一本ずつ植えられているので「これは飾り?」と尋ねると、「ブドウの苗が病気にかかっていないかを調べるため、ここに植えるのよ。バラの木が枯れたら、その列のブドウも病気に罹っている恐れがあるんですって。」とのこと。季節折々、ミラノの日常とはまた別のところで、豊穣な自然との語らいを人生の一部にしている、そんな感じでした。
今回の体験もしかり。積み上げられたいくつもの大きなかごの中に、狩ったぶどうの房を投げ込み、つまみ食いしたぶどうの汁で、口の周りや服を汚しながら、子供も大人も大騒ぎ。エレナのお父様はフレンツェのご出身で、こよなく愛する故郷、トスカーナの田園風景に、どことなく似ているこの地を、別荘地に選んだそうです。数年前旅した麗しきトスカーナに、私も束の間思いを馳せつつ、本格的な秋の訪れを祝うお祭りを楽しんだ週末でした。









